党本部
2023年06月05日

【衆憲法審】玉木代表が参議院の緊急集会などについて発言

憲法審査会発言要旨(2023年6月1日)

国民民主党代表 玉木雄一郎

 緊急集会の期間については、私は、最大70日と考えるべきだと思います。大石先生が主張されたように、70日という「数字が書いてあることの意味というのはやはり捨て難く、それを突破されたらどこまでが限界か分からなくなる」からです。一方、長谷部先生は、40日や30日といった具体的数字の入った準則規定は、平時には100%守らなければならないが、緊急事態においては、まず生き延びることが大事なのだから、必ずしも100%従わなくてもいい旨述べられました。しかし、これは、緊急事態を理由に、行政の解釈で憲法に「書いてある」ルールを恣意的に拡大することに道を開くものであり、むしろ、権力の濫用につながる危険性を孕んだ解釈だと考えます。

より具体的にいうと、仮に70日を超えて緊急集会を適用できるとして、では、いつまで可能なのか、そして、その期間を決めるのは誰なのか。憲法に規定がない以上、結局、その決定は、実質的に時の内閣が行うことになり、権力の濫用につながる恐れを払拭できません。また、長谷部先生は、70日は、ある政治勢力が権力の座に居座ることを防止する規定だとおっしゃられましたが、参議院が、現在のように衆議院の多数派と同じ政党が多数を占めている場合には、結局、同じ政治勢力が権力に居座り続けることになります。しかも、両院同時活動の原則が崩れた形で居座ることになります。

そして、こうしたモーリス・オーリウ流の「緊急事態の法理」を認めるのであれば、憲法9条の規定や解釈は全く意味がなくなってしまいます。国家の存亡をかけた究極の緊急事態が戦争であり、そのときに、国家の生き残りのためであれば、敵基地攻撃どころかフルスペックの集団的自衛権の行使さえ可能となります。条文解釈から導かれる専守防衛や必要最小限の制限も消え失せてしまうでしょう。普段、憲法の条文を守れと主張する方々は、このようなモーリス・オーリウ流の「緊急事態の法理」を許すのでしょうか。54条2項については「緊急事態の法理」があてはまるが、9条にはあてはまらないとするのは、あまりにもご都合主義であり、論理的整合性を欠いていると考えます。この点については、共産党や立憲民主党の意見を伺いたいと思います。

ちなみに、モーリス・オーリウは「緊急事態の法理」の根拠として、その「権力の起源は神にある」と述べています。権力の起源が神にあるとする「神学理論」が正しいと考える人が、ここにいるとは思えません。

もう一つ。長谷部先生が紹介されたイギリスの「バッコーク判決」についてですが、私も緊急時には赤信号を無視していいと思います。だからこそその例外を、事前に憲法や法律に書くことを提案しているのです。実は、この判決の最後の部分で、裁判官が同じ趣旨のことを次のように述べています。「私は、法律を改正すべきだと思います。全く例外なく違反とする法律を放置したことで、議会は消防署における終わりのない議論に道を開いてしまったのだから、それを終わらせるべきだ。今日の判決がそうした議論に終止符を打つことができればと思うが、議会はもっと良い対応ができるはずだ」と。つまり、緊急時には赤信号を無視できる命令は仕方がないと判示しつつも、そうした例外を法定することを議会に求めたのです。

立憲主義の基本は、まず憲法に「書いてあること」を書いてあるとおり尊重することではないのでしょうか。立憲主義を徹底するためには、事前に緊急事態における例外的対応を憲法に明定しておくべきです。これに関して思い出すのが、日本国憲法制定当時、いざとなったら内閣のエマージェンシー・パワーで処置すればよいと言ったGHQに対し、日本側から「憲法をこれから作ろうという際に、超憲法的な運用を予想するようでは、明治憲法以上の弊害の原因となる、全てが憲法の正条によって処置されるようにすることがむしろ正道ではないか」と反論した事実です。私たちも今、超法規的な運用に頼るのではなく、憲法の規範性を重視しようとした当時の日本側起草者と同じ思いを共有すべきではないでしょうか。

そして、長谷部先生のような研究者との私たち国会議員との間には、根本的な認識の違いがあると感じます。学者は「既存の条文の解釈」を出発点にして体系的に学説を組み立てるのに対し、私たち国会議員は「立法者」であり、それゆえ、例え「蓋然性」が低くても、可能性がある限り国民の生命や権利を守るためのあるべき法制度を構築する責任を負っているはずです。危機に備えるかどうかを決めるのは学者ではありません。それは国民の生命や権利を守る責任を背負った私たち国会議員です。私たちが決めない限り答えは出せません。

そして、こうした認識の差は、選挙にかかる認識においてより顕著だと思います。特に、「選挙が可能となった地域から順次、繰延投票を行なって当選者を決めていけばいい」という考えは、到底、取り得ないと思います。投票時期が大幅にずれて行われる選挙は、国民意思の表明に時間的な差が生じ、選挙の一体性が担保されないからです。全国一斉に行われる「国政選挙」の正当性に対する考え方が、学者の先生方とは根本的に異なっていると言わざるを得ません。

また、3分の1以上の議員が選出されたら定足数を満たし、そして国会議員は「全国民の代表」だからよしとする考えも、あまりに形式的に過ぎます。例えば、先ほど岩谷委員が述べたように、近畿地方で大災害が発生して選挙ができないときは、維新の会の議員の当選者が大幅に減るでしょう。そんな中で開催される国会が全国民を代表した選挙と言えるのでしょうか、やはり疑問です。

最後に一言申し上げます。戦後、私たちが目撃してきたのは「憲法の死文化」です。本来なら憲法を改正して対応すべきところを解釈を駆使して対応してきた結果、憲法に「書いてあること」と現実との乖離が放置され、憲法の死文化が進行してきたのです。更なる「憲法の死文化」を止め、憲法の規範性を回復することこそが、この憲法審査会の責務ではないでしょうか。よって、緊急事態における対応についても、権力の濫用につながりやすい「緊急事態の法理」に安易に委ねるのではなく、憲法を改正して「憲法の死文化」を防ぎ、立憲主義を守り抜くべきであることを主張して、発言を終わります。

以上

<参考>国民民主党「憲法改正に向けた論点整理」(2020年12月)